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第1話 世界が終わった日に、夫は愛人を抱いていた

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-03 06:27:30

右腕へ食い込んだ歯の感触は、痛みより先に重さとして残っていた。感染者は灰乃の腕へぶら下がるように顎を食い込ませ、裂けた皮膚の内側へ生温かいものを流し込んでいた。灰乃は非常用の鉄扉へ身体をぶつけ、残った左手で何度も鋼板を叩いたが、扉は外側から施錠されたまま微動だにしない。息を吸うたび肺の奥が焼け、噛まれた場所から心臓へ向かって冷たい痺れが這い上がってくる。それでも扉上部の小窓に夫の顔が見えている間は、死ぬという事実より、彼が開けてくれる可能性の方を信じていた。

「航志、開けて。お願い。まだ間に合うから」

小窓の向こうで、度会航志は操作盤へ右手を置いていた。灰乃の声が聞こえていないはずはなく、視線も彼女の顔から逸れていなかったが、指先だけは解錠ボタンへ近づこうとしない。背後には白い照明に守られた安全区域があり、その奥で登志江と篤一が何かを叫び、網代泉帆が両腕を胸元へ抱いていた。灰乃が命を削って運び込んだ水も、薬も、食料も、すべて扉の向こう側にあった。

「悪い、灰乃。ここに感染者を入れるわけにはいかない」

航志は感染者ではなく、灰乃を見ながらそう言った。苦しそうに寄せた眉も、穏やかに抑えた声も、妻を失う人間のものではなく、自分の判断を正しいと納得させる時の顔だった。灰乃はその声を何年も夫の優しさだと思い込み、従えない自分の方が冷たいのではないかと疑い続けていた。

「家族を守らないと」

家族という言葉が、耳の奥で意味を失った。灰乃も戸籍上は彼の妻であり、つい数時間前まで、命懸けで物資を集める理由を同じ言葉に求めていた。ところが航志の口から出た家族の中に、自分だけが含まれていなかったのだと、その瞬間になって理解した。血で濡れた床へ膝をつくと、小窓の中の航志が安堵したように操作盤から手を離す。背後から感染者の息が首筋へかかり、灰乃は夫の顔を最後まで見たまま、黒い濁流へ沈むように意識を失った。

機械の低い唸りと、微かな浮遊感が身体を包んでいた。灰乃は息を呑んで目を開き、天井の白い照明と鏡面仕上げの壁に映る自分の姿を見た。血はなく、右腕の皮膚も裂けておらず、濃紺の髪は仕事へ出た朝と同じように背中へ流れている。胸の奥だけが死の直前の速さで脈打ち、1拍抜けたあとに強く打ち返したため、灰乃は反射的に手すりを掴んだ。掌へ伝わった冷たい金属が、ここが幻ではないと告げていた。

スマートフォンには午後1時7分と表示されていた。日付も曜日も、見間違えようのない終末開始日であり、エレベーターの階数表示は自宅のある階へ向かって数字を減らしている。灰乃は震えそうになる指を握り込み、銀色のピルケースが鞄の内ポケットにあることを確かめた。蓋の裏へ刻まれた「帰る場所は自分で決める」という祖母の言葉を思い出すと、死ぬ直前まで帰る場所だと思っていた家が、急に他人の部屋のように遠くなった。

到着音とともに扉が開き、共用廊下の静けさが流れ込んできた。遠くで掃除機をかける音がし、どこかの部屋から炒め物の匂いが漂う、世界が数分後に壊れるとは誰も知らない日常だった。灰乃は自宅前へ進み、鍵を差し込む前から、1周目に見たものが寸分違わず待っていると分かっていた。それでも玄関の端に揃えられた淡いベージュのパンプスを見た瞬間、胸の奥に古い傷が開くような鈍い痛みが走った。

リビングには口紅の跡が残ったグラスと航志のグラスが並び、寝室へ続く扉は半分だけ開いていた。そこから聞こえる女の笑い声は、航志の友人として何度も紹介されていた網代泉帆のものだった。灰乃は立ち止まらず扉を押し開く。甘い香水と汗の匂いがこもった寝室で、乱れたベッドの脇に立つ2人が同時にこちらを見た。

航志は素肌へシャツを引っ掛け、留めかけたボタンから指を離した。泉帆は薄い下着姿の上へ、灰乃が自分のために買った灰青色のカーディガンを羽織っている。困ったように眉を下げる表情まで、1周目に見た時とまったく同じだった。あの時の灰乃は足元から床が消えたように立っていられず、怒ることもできないまま泣いた。今は壁掛け時計へ視線を移し、午後1時9分であることだけを確認した。

「灰乃、違う。これは――」

「4分しかないので、説明は結構です」

航志の口が半端に開いたまま止まった。灰乃は彼の横を通り過ぎ、自分のチェストから予備の薬、身分証、充電済みのモバイルバッテリーを取り出して通勤鞄へ詰める。踵のある仕事靴を脱ぎ、底の厚いスニーカーへ履き替える間も、背後の2人は責められないことに戸惑ったように黙っていた。夫の裏切りを問い詰めるより、世界が壊れたあとも走れる靴を選ぶ方が、今の灰乃には重要だった。

「灰乃さん、ごめんなさい。私も、こんなことになるつもりじゃなかったの」

泉帆は震えを含ませた声で謝りながら、航志の背後へ半歩身を寄せた。誰かに庇われる位置を選び、自分から責任の中心に立たない癖まで変わっていない。灰乃は鞄のファスナーを閉めてから振り返り、泉帆の肩だけを見た。

「その服、私のです。脱いでください」

泉帆の申し訳なさそうな表情から、ほんの一瞬だけ苛立ちが覗いた。それでも航志の視線を意識したのか、すぐに唇を噛んでカーディガンを脱ぐ。灰乃は受け取った布を、床へ落ちていた航志のシャツの上へ静かに置いた。2人の匂いが移った服を持ち出す理由はなかった。

玄関へ戻ったところで外から鍵が開き、買い物袋を提げた登志江が入ってきた。スニーカー姿の灰乃と、その向こうで服を整えている2人を順に見たものの、驚いたのは一瞬だった。やがて息子を庇う時にいつも作る、困り果てた母親の顔へ変わる。1周目には気づけなかった切り替えの早さが、今の灰乃にははっきり見えた。

「灰乃さん、こんなことで大騒ぎしないで。航志だって疲れていたのよ」

「知っていたんですね」

登志江は答えず、買い物袋を床へ置いた。目を伏せたのは後ろめたさからではなく、追及をやり過ごすためだった。航志は母親の援護を当然のように待ち、泉帆もまた、灰乃が感情的に責め立てる役へ戻るのを待っている。

「泉帆さんは素直で可愛い子よ。あなたみたいに、何でも理屈で言わないし。男の人には息を抜く場所だって必要でしょう」

1周目には、その言葉で結婚生活のすべてを否定されたように感じた。仕事を続け、家事を分担してほしいと頼み、病気を理由に行動を制限されたくないと訴えたことまで、可愛げのない妻の証拠にされたからだ。今度は涙も怒りも湧かず、灰乃は登志江の背後にある窓へ視線を向けた。秒針が進み、午後1時13分になった瞬間、空が音もなく白く明滅した。

昼の光とは異なる白さが窓ガラスを塗り潰し、部屋の影を一瞬だけ消した。直後、4人のスマートフォンが同時に鋭い音を鳴らし、テレビも勝手に電源が入る。画面へは〈SURVIVAL RESIDENCEへようこそ〉〈法的家族情報を確認しました〉〈世帯主:度会航志〉〈世帯構成員:度会灰乃、度会篤一、度会登志江〉〈世帯共有システムを利用しますか?〉と、1周目と同じ文字が並んだ。灰乃は最後まで読み終えるより早く、選択欄へ指を触れた。

〈いいえ〉を選ぶと、〈個人居住宣言を行いますか?〉という確認が重なった。灰乃は迷わず〈はい〉を押し、表示名の入力欄へ〈蓼丸灰乃〉と打ち込む。確定した途端、航志の端末から警告音が鳴り、彼はシャツのボタンも留め終えないまま近づいてきた。

「何してるんだ」

「自分の部屋を、自分で持ちます」

「夫婦なんだから一緒にした方が得だろ。水も食料も共有できる」

「あなたの判断に、私の命を預けたくありません」

「今こんなことで意地を張るなよ。母さんたちもいるんだぞ」

航志の声が低くなったが、灰乃は返事をしなかった。1周目の彼は同じ画面で灰乃だけを世帯リンクから切り離し、その事実を知らせないまま物資を集めさせ続けた。感染者が徘徊するスーパーから水を4本持ち帰った夜、航志、篤一、登志江、泉帆へ1本ずつ渡され、灰乃の分だけは残らなかった。自分の水を尋ねると、篤一は蓋を開けながら「外を回ってきたんだから、途中で飲めただろ」と笑った。灰乃は1口も飲んでおらず、翌朝には喉の痛みに耐えられなくなって、非常階段の排水溝へ溜まった濁り水を布で濾して飲んだ。

その横を通った登志江は「泉帆さんの分も、またお願いね」と言い、自分たちの居室へ戻っていった。灰乃が家族共有倉庫へ入れない理由を尋ねても、航志は設備の不具合だと誤魔化した。妻を守ると口にしながら、医療資源を消費する身体を家族の外へ捨て、働ける間だけ利用していたのだ。今の灰乃は、その選択をされるより先に、自分の指で家族という名の鎖を切った。

床が遠くで軋み、壁紙の継ぎ目に走った黒い線が扉の形へ広がった。リビングの壁へ存在しなかった灰色の金属扉が現れ、端末には〈個人居室D-0317を付与しました〉と表示される。窓の外では車の警報音と人々の叫びが重なり、遠くの高架道路が不自然に傾き始めた。泉帆はようやく異常を理解したらしく、カーディガンを返した時よりも青い顔で航志の腕へ縋った。

午後の数時間で、マンションは日常の形を失った。共用廊下は角を曲がるたび見覚えのない扉が増え、窓の外には夕方まで動かない白い空が広がっている。説明には午前6時から午後6時までを昼、午後6時から翌朝までを夜とし、夜間の廊下には感染者が出現すると記されていた。灰乃は午後5時55分になる前に自分の居室へ入り、薄い扉と簡素な寝具しかない室内を確かめた。家族と資源を共有しないというだけで、何もない部屋が以前より安全に感じられた。

航志が作ったグループチャットでは泉帆が喉の渇きを訴え、登志江が廊下の自動販売機へ水を取りに行くと言い出した。灰乃は時刻を見て、〈午後6時以降、廊下へ出たら死にます〉と1度だけ警告した。航志からは〈大げさに脅すな〉と返り、登志江も〈ちょっと取ってくるだけよ〉と笑う顔文字を添えた。灰乃はそれ以上止めず、午後6時を待った。

時刻が変わった瞬間、廊下の照明がすべて消え、数秒遅れて非常灯が赤く灯った。壁の向こうから硬いものを引きずる音と、喉の奥で湿った息を鳴らす声が近づいてくる。灰乃は扉の横に立ち、〈夜間保護開始〉の表示を確認した。やがて遠くで登志江の悲鳴が上がり、走る足音が何度も壁へぶつかりながらこちらへ近づく。次の瞬間、薄い扉が外側から激しく叩かれ、金属板全体が震えた。

「灰乃さん! 開けて! お願い、開けてちょうだい!」

航志からも〈母さんを入れろ!〉〈すぐそこだろ!〉〈お前の部屋なら開けられる!〉と個人チャットが届いた。命令口調の文字を見た途端、1周目に同じ扉を開け、登志江を引き入れた際に右腕を深く裂かれた記憶が戻ってくる。治療のために持ち帰った医療ボックスは、泉帆の犬が足を浅く切ったという理由で開けられ、消毒液も滅菌ガーゼも抗菌薬も使い切られた。灰乃が残してほしいと頼むと、泉帆は犬を抱いて「この子は痛いって言えないんだから」と拒み、登志江も「灰乃さんは我慢できるでしょう」と笑った。

航志は血の滲むタオルを腕へ巻いた妻を見ても、「後でまた取りに行けばいい」と言っただけだった。誰が行くのかと尋ねた灰乃へ、彼は迷いなく「お前だよ」と答えた。その声と、今届いている文字は何も違わない。航志にとって灰乃の身体は、家族を守るために何度でも外へ差し出せる道具だった。

扉の外では、登志江が爪を立てるように金属を引っ掻いていた。言葉の合間に短い悲鳴が混じり、背後では感染者の足音が確実に近づいている。灰乃は解錠パネルの前へ立ち、指先をかざしたまま動かなかった。胸の奥で脈が不規則に跳ね、助けなければ自分が悪い人間になるという恐怖がまだ残っていることに気づく。それでも灰乃は呼吸を整え、解錠の表示から目を逸らさなかった。

「お願い、家族でしょう!」

「家族なら、私に水1口くらい残してくれればよかったですね」

扉の向こうが一瞬だけ静かになった。登志江には、まだ起きていない出来事の意味など分からない。灰乃にとってだけ現実だった渇きも、濁った水の泥臭さも、裂けた腕へ古いタオルが貼りついた痛みも、この世界の彼女は知らなかった。それでも今も息子の裏切りを庇い、泉帆の水のために警告を軽んじた登志江が、同じ状況で違う選択をするとは思えなかった。

「灰乃さん?」

「さようなら、お義母さん」

灰乃は解錠パネルから手を離し、内側の補助錠をゆっくり下ろした。金属が噛み合う音の直後、登志江の悲鳴が一段高くなり、扉へぶつかる衝撃が不規則に続いた。灰乃は耳を塞がず、背を向けることもせず、その声を聞いた。やがて助けを求める言葉は崩れ、喉を擦るような呻きへ変わり、最後には人間のものではない呼吸音だけが金属板の向こうを往復した。

長い夜の間、灰乃はほとんど眠らなかった。登志江を見捨てたことへの後悔はなかったが、最後の声が記憶へ残ることまで望んだわけではない。誰かを見捨てれば何も感じなくなるほど強くなれるのではなく、感じたまま扉を開けないことを選ぶしかなかった。灰乃は簡素なベッドへ腰掛け、銀色のピルケースを両手で包みながら朝を待った。

午前6時になると、廊下を満たしていた音が一斉に途絶えた。端末へ〈第1夜を生存しました〉〈100コインを獲得しました〉という通知が重なり、その下から黒い表示がせり上がる。〈死亡履歴照合完了〉〈1周目の直接死亡要因を確認しました〉〈分類:感染者〉。文字は1度明滅して消え、〈分類:人間〉〈死亡寄与率第1位〉〈度会航志〉という新しい項目が現れた。

灰乃は夫の名前を長く見つめた。右腕へ食い込んだ歯より、鉄扉を閉めた人間の指の方が自分を死へ近づけたのだと、システムは判定している。驚きも悲しみも湧かず、胸を締めつけていたものだけがわずかに緩んだ。唇へ浮かんだ笑みは歓喜ではなく、もう家族のために死ななくてよいと知った人間の、ひどく静かな解放だった。

「今度は、あなたのためには死なない」

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    投票開始から10分も経たないうちに、蓼丸灰乃と縵谷玄理の名前は他の候補を大きく引き離していた。世界チャットには投票数とともに理由らしき言葉が積み重なり、その多くが航志の書き込みを引用している。彼は昨夜、感染者へ〈誘導標識〉を取り付けて灰乃の居室へ群れを集め、高出力砲台まで向けたことには一言も触れなかった。代わりに、灰乃と玄理が大量の特殊アイテムを所持していること、2人とも高レベルであること、他の生存者より危険区域へ耐えられる可能性が高いことだけを並べ、「最も生存率の高い2人へ任せるのが合理的だ」と繰り返していた。殺すために送り出すのではなく、強い者へ役目を任せるのだという形へ言い換えれば、投票する側も自分の指を汚さずに済む。〈縵谷玄理はLEVEL5だ。外へ出ても戻れる可能性がある〉〈蓼丸灰乃も特殊装備を持っているんだろ。俺たちより生存率は高い〉〈家族を3人も見捨ててるなら、今度は他人を助けてもいいんじゃないか〉流れていく文章を追いながら、灰乃は端末を膝の上へ置いた。多数決は、人数が増えるほど正しさに似た顔をする。自分1人では押せないボタンも、100人のうちの1票になれば押せる。強い人間なら死なないかもしれない、資源を持つ人間なら少しくらい奪っても困らない、家族を見捨てた女なら自分たちのために犠牲になっても当然だと、それぞれが少しずつ理由を持ち寄れば、最後には誰も自分が2人を殺したとは思わなくて済む。玄理は壁面端末へ表示された規則を何度も開き直していた。右肩の包帯には薄く血が滲んでいるが、先ほどから痛みを訴える様子はない。〈生存バインドペア1組を指定〉という条件を押し、排出対象の設定、投票方式、バインド解除の可否まで確認している。灰乃も隣から表示を追ったが、解除項目は灰色に閉ざされ、現在の親密度10では操作できないようになっていた。「俺だけ外へ出られないか試す」玄理が言った。灰乃はすぐに顔を上げた。「1人で出れば投票条件が満たされません」「条件を満たす必要はない。俺が先に夜間領域へ出れば、対象ペアとして成立しなくなる可能性がある」「それでも試すんですか」「他に何かあるか」玄理は本気だった。自分だけを排出させ、灰乃とのペアそのものを投票不能にできれば、少なくとも彼女は残せると考えている。その発想が出たこと自体には驚かなかった。玄理は手が届く位

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